The Drama of Magic. PartⅠBarong その4

Beryl De Zoete & Walter Spies  Dance and Drama in Bali』p.94の27行目からp.96の13行目まで

1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

しかしバロンが路上に出没するのはガルンガンの時期だけではない。夕陽が沈むころ、行列が近づいてくるのに遭遇することも恐らくあるだろう。この集団はしっかりした足取りで、つるつる滑る下り坂を降り、小道を歩き、急流を渡る。乾燥した椰子の葉を束ねて作ったたいまつに、幻想的な火が点されている。人々は下り道を進めるにつれて笑ったり、叫んだりする。ついに、たいまつの炎しか目に映るものはない。僧侶たちは白い服を着ている。そして渓谷のはるか下では、バロンにつき従っている旗の先端が上下に揺れている。その場所でバロンは、寺院の開基祭と同じ日取りである自身の誕生日の沐浴を、2つの川が合流する地点であるとりわけ聖なる場所でおこなっているのである。(注:若干の極めて神聖なバロンたちは、水田の水が流れている送水路の下を通過することも、頭の高さを越える鉄製の大梁(訳註:吊橋の「塔」を指しているようです)がある近代的な吊橋の上を進むこともできない。そこで行列は必然的に送水路よりも高い土手や、橋が渡された渓谷の中を進んでいくことになる

 

 われわれが、バロン劇に包合されているコンセプトの数々を分類しようとすることは、バリ文化の歴史を充分に知り得ていないため、困難である。出来事を、数少ない理論に可能な限り結びつけることしかできない。ともかくバロンが踊ることを理解するために、バロンがなぜ踊るのか、そしてバロンは何を踊るのか、それらの点について少しでも知ることが重要である。

 

p.95→世界には、自分を動物の子孫でもあると考える人々がいる。その先祖にあたる動物はほかの祖先たちと同じように、その人々を助けるのである。アフリカでしばしば行われるように、ふさわしい供物を供えて接近すれば、その動物はかつて人々の祖先の1人に助けられたことがあるので、依頼者のために傑出した防御者になるのである。バロンも間違いなく「防御者としての動物」の部類に属すであろう。仏教における獅子はインド由来の仏教絵画で描かれているが、現実のライオンの姿ではない。それよりもバリのバロンにたいへんよく似ているのである。おそらく仏教以前に考えられていた、防御者としての動物、すなわち「祖先の友人」に由来するのだろう。 たぶんそのような絵画では現実のライオンではなく、エキゾティックな獅子舞(注:たとえば葛飾北斎筆の画集『日新除魔帖』に描かれている。日新除魔帖には、ライオンのように装った獅子舞の踊り手たちと、邪なるものを寄せ付けないよう彼らが踊っている姿が描かれているのような、想像上のライオンを実現しているのである。バロンはその造形的な姿のライオンと密接に関連しているように思える。ボマ(Boma)の頭は防御の装飾としてバリの寺院の門で見受けられるが、それはジャワのコロ(Kala)の頭とまったく同じである。コロは森の王者バナスパティ(Banaspati)として知られており、バナスパティはバリのバロンのいちばん普遍的な名前である。ラジャ・シンガ(Raja Singa)すなわち虎の王の仮面は、スマトラ(Sumatra)のトバ・バタック(Toba-Batak)族の家屋に掲げられており、形や機能はボマにかなり似ている。トバ・バタック族の墓石の前面には同類の仮面があり(注:バナスパティ・ラジャ(Banaspati Raja)であるバロンが墓場の守護者であるように、それは墓を守護する後面には尻尾が彫刻されている。いっぽう霊廟はバリのバロンが胴体をたまわせた姿と奇妙にも同じ形である。筆者も含めて人々は、バリ人が火葬の際に動物の形をした棺を用いることに、同類のトーテム崇拝の源泉を読み取ろうとするだろう。   

 

 しかしバロンが防御者としての動物ならば、バロンは何から人々を防御するのか?そして墓場の守護者であるランダと何の関係があるのか?われわれは慣れ親しんでいる、善と悪、光と闇といったキリスト教の概念を自分たちの考えから取り除かねばなるまい。バロンは、そして同じくランダも、ものごとの闇の部分あるいは野卑に属すと同時に、その反対の天国のようなパートにも属す。しばらく後に触れる予定であるが、シワ神はブラック・マジックで重要な役割を果たしている。そして彼の妻デウィ・スリ(Dewi Sri)は豊作の女神であるとともに死の神ドゥルガ(Durga)でもある。

 

 ランダについてはすでに何度も述べたのであるが、それでもランダのキャラクターに触れることなく話を進めるのは不可能である。様々な見方ができるランダは、バロン劇においてもう1つの重要な主人公となる。ランダとはバリ語で寡婦を意味する。しかし未亡人という意味に、危険性や戦慄といった類の畏怖が加えられた。未亡人ということは、亡き人の妻であり、夫が亡くなった時から着飾ったり装うことをやめるにきまっている。そしてあの世へと、夫につき従うものだろう。一般の想像力が、未亡人を死者の家である墓場に結びつけることは、いかに自然の成り行きであるかを知ることは容易である。そしてランダという名前に魔女という意味を加え、ランダがぞっとするような恐ろしい場所を占有している、とバリの大衆が想像するのはたやすいことである。実際、ランダという名前はあらゆる呪術で使われているし、魔女や魔術師にまったく関係がないときでも、ランダの仮面は怒りの状態にある神をあらわすもの(注:レゴンの演目スマラダナ(Smaradahana)(訳註:スマランダナ/Semarandanaともいいます)におけるシワ神の登場を参照として使われる。p.96→たとえばシワ神の妻であるギリプトゥリ(注:原著p.294のトペン劇におけるジャヤクスナ/Djayakoesoenaを参照、ラヴァナ(Ravana, Rawana)あるいはラクシャサ(Rakshasa, Raksasa)の妻であるシュルパナカ(Surpanakha)(注: 原著p.153、第5章ワヤン・ウォン/Wajang Wongを参照)、バッスール(Basur)舞踊劇で呪力を使って変身したバッスール(注:原著p.206、第8章アルジャとバッスール/Ardja and Basoerを参照)、死の女神であるドゥルガ、そして奇怪な怪物の仮面がない時に代用される。別のジャンルのトペン(Topeng)劇(訳註:仮面舞踊劇)では頭を豚の頭に変えられたブドゥルの王、そしてガンブー(Gamboeh,Gambuh)劇のアマッド・モハマッド(Amad Mohamad)(注:原著p.142、第4章ガンブー、チュパック、タントリ/Gamboeh,Tjoepak,and Tantri内のガンブーを参照)という物語ではチャロナランや他の魔女としてだけではなく白い象の代用としても使われる。   

 

 舞台に登場するランダの姿は、プラ・ダレムの彫像に表現されたランダに劣らないほど恐ろしい。光を反射してぴかぴかに輝く白い仮面には、金色の眉、大きく前へ突き出た眼、巨大な白い歯、そして額に向かって上向きにカーブしている牙が生えており、この仮面は恐怖の対象であるとともに崇拝の対象でもある。バロンの仮面と同じように、ランダも寺院に住んでいる。ランダの仮面は籠の中に収納され、地面に接触することなく保管されている。まれに2体から5体にものぼるランダの仮面を所有する村もあり、劇中でさまざまな段階へ変身する姿にあわせて使い分けている。(つづく)