Dance and Drama in Bali

2017年10月31日をもって長年お世話になったdionのホームページ・サービスが終了。

したがって、Dance and Drama in Baliの翻訳掲載ページをこちらに移動することとしました。以下は当時のサイトに掲載していた「前書き」のようなものです。

 

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ここからはベリル・デ・ゾエト(Beryl DeZoete)とワルター・シュピース(Walter Spies)が著した『Dance and Drama in Bali』
(1973 Reprint, Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd.1938) を自分なりに訳したものを少しずつ載せていこうと考えています。

 

昔、私がバリ舞踊を習いはじめて、バリへの短い渡航を繰り返していた頃のことです。バリから帰ってきて日本で『Dance and Drama in Bali』を読むたびに、頭の中に映像や音が浮かぶような感じがしました。実は当時はわからない単語を調べた程度で、正しくは「目を通した」という表現のほうが正しいのですが、文章をわかったような、わかっていないような状態にもかかわらず、しばらくはこの本から目を離すことができませんでした。それから数年後、とりあえず『Dance and Drama in Bali』の「第3章 呪術劇 Part 1 バロン/Barong」から試しに訳してみました。今回、手始めに載せてみたのは、その「第3章 呪術劇 Part 1 バロン/Barong」と、「第 3章 呪術劇 Part 2 チャロナラン/Tjalonarang, Calonarang」です(このページのいちばん下から目次へ飛ぶことができます)。

 

私は英語を専門的に勉強した経験がありません。本書は表現も凝っているうえにイギリス英語なので、私の訳は間違っている部分も多々あると思います。 また私は人類学や民族学を専門的に勉強したこともありません。よって妥当でない訳語も多々あると思います。 そのような恥ずかしくも拙い訳ですので、できれば原本を手にとって読んでみてください。 原本は日本やバリで入手することが可能です。

 

そして矛盾するかもしれませんが『Dance and Drama in Bali』に縛られることなく、バリ舞踊や文化の多様性と現在を知り、感じることも大事だと思います。『Dance and Drama in Bali』が出版されたのは1930年代のことです。

 

本書に掲載されている写真は載せません(本書に掲載されている写真はいろいろな事情があって昼間に撮影されたものもあるそうですが、当時の踊りの様子を知るには素晴らしく、美しい写真です。ぜひ原本でご覧になってください)。訳文中には、今日の意識や考え方に照らし合わせてみると、差別的表現や不当・不適切な語句があります。しかし当時のバリの時代背景および原本の価値を考慮し、そのまま訳しました。どうかご了解ください。

著者について

ドイツ国籍のワルター・シュピース(Walter Spies、ヴァルター・シュピースとも表記されます)は、1895年9月5日(9月15日という説もあり)モスクワ生まれの画家・舞台美術家・音楽家・演出家。父親はモスクワの名誉ドイツ副総領事。1910年から本国のドレスデンで教育を受けていたが、モスクワ帰省中の1914年に第一次世界大戦が勃発。敵性外国人として捕らえられ、1917年までウラル地方で抑留生活を過ごす。1918年にドイツのヘレナウへ移住。1920年からベルリンに居住。シュナーベル(注1)にピアノを、ココシュカ(注2)に絵画を師事。ムルナウ(注3)、ブゾー二(注4)ヒンデミット(注5)たちと交流。1923年アムステルダムで絵画展を開き、王立植民地博物館へよく通う。王立植民地博物館とバリの写真集にインスピレーションを受けて、同年インドネシア(当時のインドネシアは「オランダ領東インド」)へ渡る。ジャワ島バンドンの映画館やホテルでのピアニストを経て、ジョグジャカルタ王宮オーケストラの指揮者をつとめる。1925年に初めてバリを訪れたのち、1927年からバリに移住。バリでも絵画を描き続け、地元の人々へ絵画や舞踊などの影響を与える。また音楽・舞踊も含むバリのあらゆる文化に惹かれ、研究や調査をおこなう。1938年ホモセクシャルであることを理由にオランダ植民地政府によって拘束、投獄。翌1939年解放。しかしナチスのオランダ侵攻にともない、再び1940年に敵性外国人としてスラバヤの強制収容所に収容される。1942年1月19日シュピースを含む収容者たちを乗せた輸送船はセイロン(スリランカ)へ向かう途中、日本海軍の航空部隊から爆撃を受けて沈没。享年47歳。


(注1) Artur Schnabel 1882.4.17 - 1951.8.15。オーストリア出身のピアノ奏者・作曲家・ピアノ教師。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音を果たす。彼が校訂したベートーヴェンブラームスモーツァルトピアノ曲の楽譜はシュナーベル版と呼ばれて親しまれている。


(注2) Oskar Kokoschka 1886.3.1 - 1980.2.22。画家・詩人。戯曲も書く。エゴン・シーレグスタフ・クリムトと同じくオーストリアを代表する画家の1人。作曲家マーラーの未亡人との関係も有名。代表作は『ヴァルデンの肖像』『風の花嫁』など多数。


(注3) Friedrich Wilhelm Murnau 1888.12.28 - 1931.3.11 サイレント映画およびドイツ表現主義映画の巨匠。代表作に『吸血鬼ノスフェラトゥ』など。


(注4) Ferruccio Busoni 本名はDante Michelangelo Benvenuto Ferruccio Busoni 1866.4.1 - 1924.7.27。ピアニスト・作曲家・指揮者・音楽学者。彼が校訂したバッハのクラヴィア作品はブゾーニ版と呼ばれて親しまれている。『三文オペラ』などが代表作として挙げられるクルト・ヴァイルは1921 - 1924年ブゾーニに師事。


(注5) Paul Hindemith 1895.11.16 - 1963.12.28。ドイツの作曲家・演奏家・指揮者・音楽理論家・古楽の演奏活動もおこなう。主要作品は多すぎて挙げらず・・・。


追記(2007年5月22日)散失やその他の事情からシュピースの絵画作品に接する機会を得ることはかなり難しいのですが、イギリスの大学でシュピースを研究しておられるGeff GreenさんがWEB上で彼の絵画作品を公開されています。かなりまとまった数が公開されていて、今まで数点しか見たことがなかった私は大変驚いたとともに、Geff Greenさんの労力に感動しました。
そこでGeff Greenさんへ「リンクさせてほしい」とメールを出したところ快諾してくださいましたので(多謝)、
Geff GreenさんのWEB  

Walter Spies, a German Artist in the Colonial Dutch East Indies 1923-1942

を謹んでご紹介させていただきます。是非訪れて、シュピースの作品をご覧になってください。

 

ベリル・デ・ゾエト(Beryl DeZoete)(注1)は1879年ロンドン生まれ。父方はオランダ系。イギリスの舞踊家・舞踊研究家・舞踊批評家・舞踊教師・翻訳家・ダルクローズのリトミック指導者。舞踊に関する執筆記事はさまざまな機会に『The Daily Telegraph』紙、『New Statesman and Nation』誌、『Ballet』誌ほか、多数の新聞や雑誌などに掲載された。オックスフォードがやっと女性にも門戸を開いた時代の1人であり、1901年にサマヴィル・カレッジを卒業。ドイツ語・イタリア語・フランス語にも堪能。1902年バジル・ド・セリンコート(注2)と結婚、数年後に離婚。1905年Beryl De Selincourt名で『Homes of the First Franciscans』を、1907年にはMary Sturge Hendersonとの共著で『Venice』を出版。1909年イタリアのギュリオ・カロッティ(Giulio Carotti)の著作『美術史』(『A History of Art』)をアリス・トッドとともに英訳。1918年アーサー・ウェイリー(注3)に出会う。1925年アーサー・ウェイリーから『The Tale of Genji (源氏物語)』第一巻を献呈される。1929年からはイタリアの作家イタロ・ズヴェーヴォ(注4)の作品を次々と英訳(注5)、出版。1934年、ヒンドゥ文化を背景に持つ国々の舞踊を研究するため各国を訪れている最中に初めてバリ島を訪れる。1935年-1936年に再びバリに滞在し、シュピースとともにバリの舞踊や舞踊劇を研究。1936年から生涯を終えるまで、パートナーのアーサー・ウェイリーと同居。フランス外人部隊の脱走兵や、ナチスの弾圧から人を救ったこともあった。1947年イタリアの作家モラヴィトの『Agostino』を英訳、出版。1948年後半からインド、セイロンへ出発、1年近く滞在。1951年ハンチントン舞踏病を発症。1953年『The Other Mind: A Study of Dance and Life in South India』、1957年『Dance and Magic Drama in Ceylon』を出版。1962年3月4日逝去。享年82歳。翌1963年、世界各地の舞踊に関する論文集『The Thunder and The Freshness』(序文はアーサー・ウェイリー)が出版される。


(注1) ベリル・デ・ズータ、 ベルリ・ド・ズーテ、ベリル・ドゥ・ズゥト、ベリル・ド・ゼーテ、ベリル・デ・ゾーテとも表記される。

(注2) Basil De Selincourt 1877-1966 イギリスの文筆家。ウィリアム・ブレイクホイットマンワーズワースの研究者。

(注3) Arthur David Waley 1889.8.19 - 1966.6.27 源氏物語の英訳や中国文学の英訳で著名な文学者および東洋学者。その功績により1959年日本政府から勲三等瑞宝章を受ける。『Dance and Drama in Bali』に序文を寄せた。

(注4) Italo Svevo 1861.12.19 - 1928.12.13 本名はAron Ettore Schmitz。会社員・小説家・劇評家・文学評論家。フロイトの影響を受けた作品『la coscienza di Zeno』を1923年に自費出版したものの、出版当時はイタリア文学界から無視される。しかしズヴェーヴォの英語の教師であったジェイムズ・ジョイスは『la coscienza di Zeno』を高く評価し、世へ広く知られる手助けをおこなった。日本で翻訳出版されている彼の作品は『トリエステの謝肉祭』(原題"Senilita" 訳:堤康徳、白水社 2002年)、『ゼーノの苦悶』(原題"la coscienza di Zeno" 訳:清水三郎治 集英社「世界の文学1」1978年)

(注5) 1929『The Hoax』(原題"Una burla riuscita")、1930『The Confessions of Zeno』(原題"la coscienza di Zeno")、1932『As a Man Grows Older』(原題"Senilita")。ほかに、英訳の初版年がわからない『A Life』(原題"Una Vita")、ズヴェーヴォの小品集をまとめたと思われる『Short Sentimental Journey and Other Stories』(デ・ゾエトのほかにコリソン=モーリイ、ジョンソンも英訳を担当)が1967年に出版されている。

シュピースに比較すると、彼女の生涯について詳細に書かれた評伝は少ないですが(というか無い) ← 打ち消し線の部分は、去年2006年に書きました。すみません。私が探し足りないだけでした。あれから調べてみると、デ・ゾエトの手紙コレクションを持っている大学もありました。そのうち、海の向こうの人が評伝を書いてくれたりするかもしれません(勝手な予想)。上記のデ・ゾエトの経歴に関しては、Michael Hitchcock, Lucy Norris 著『Ball, The Imaginary Museum : the photography of Walter Spies and Beryl de Zoete』(1995 Kuala Lumpur : Oxford University Press)のほかに 宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男-アーサー・ウェイリー伝』(1993年 新潮社)もたいへん参考にさせていただきました。平伏感謝。


シュピースについては以下の本も読んでみてください。
伊藤俊治港千尋 『熱帯美術館』1989 リブロポート
伊藤俊治『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』2002 平凡社
・梅田英春『解説』(ヴィキイ・バウム『バリ島物語』金窪勝郎/訳 1997 筑摩書房に所収)
・坂野徳隆『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』2004 文遊社
 ・永渕康之『バリ島』(講談社現代新書1395) 1998 講談社
 ・山下晋司『バリ 観光人類学のレッスン』 1999 東京大学出版会
 ・エイドリアン・ヴィッカーズ『演出された「楽園」-バリ島の光と影』中谷朱美/訳 2000 新曜社


デ・ゾエトについては先に挙げた宮本昭三郎氏の著作のほかに、アリスン・ウェーリー著『ブルームズベリーの恋-アーサー・ウェーリーとの愛の日々』(井原眞理子・訳 1992年 河出書房新社)も読んでみてください。

上記のシュピースとデ・ゾエトの経歴は、バリに関する部分やそれぞれに影響を及ぼしたと思われる部分だけを抜粋したようなものです。単純に数字や固有名詞でパーッと追っていくだけでもスゴイ人たちすぎて「ハァ」の溜息が出ました。しかし、ここからは「ハァ」はとりあえず横に置いておき、『Dance and Drama in Bali』に特化することとします。

 

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何年前にUPしたのかもう思い出せません。

FBもTwitterも存在していなかった頃であることは確かです。