The Drama of Magic. PartⅠBarong その14  

Beryl De Zoete & Walter Spies 『Dance and Drama in Bali』p.113の30行目からp.115まで

1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

『バロン・ランドゥン』 (原著写真 No.45とNo.46)

バロン・ランドゥン(Barong Landoeng, Barong Landung)という名称は、巨大な男性と巨大な女性という2体の人形を指しているのだが、それぞれの人形はふつう男性がジェロ・グデ(Djero Gede, Jero Gede, 大きな人)、女性がジェロ・ルー(Djero Loeh, Jero Luh, 女性)と呼ばれている。2体の人形は、オーストリアザルツブルグ州タムスヴェーク(Tamsweg)郡で催される『サムソンの行列』に登場する人形、もしくはフランスのニースの巨大なカーニバル人形と同類のものである(脚注2:オランダ南部フェンローの巨大な人形のカップルも参照のこと。2体の巨大な人形は祝祭の時に市長と市会議員たちの前で踊らされる。デンパサール近郊のいくつかの村では、バロン・ケッが踊るときに登場したサンダラン(それもデンパサールのケースであった)にかなり似た、小さな仮面の人形たちがバロン・ランドゥンに同伴しており、その小さな仮面の人形たちとバロン・ランドゥンの全員で歌唱劇を演じるのである。バロン・ランドゥの季節はバリの元旦に相当するガルンガンであり*1p.113→それはまた同時に、ほかの種類のバロンたちが一斉に遠出に出かける時でもある。その季節には、大きな人形のカップル、バロン・ランドゥンが道をパレードしている。或いは、太鼓やフルートの1種であるスリン(suling)、ゴング類といった小規模なガムランの演奏とともにバロン・ランドゥンたち人形は道路で休止している。そして村人たちが取り囲む中で、民謡や即興の対話にあわせてバロン・ランドゥンたち人形は互いに接近したり、引き下がったり、揺れたり、上半身を傾けるといった単純な踊りを展開する。そこでは常にバリ語を使って様々な物語が演じられる。また独特な旋律と唄い方がみられる。そしてバロン・ランドゥンの歌唱劇では、男性の人形が女性の人形の肩に腕を回しながら、キスや愛撫の真似や、きわどいジェスチャーとともに、コミカルな男女の戯れが演じられるのが一般的である。2体のバロン・ランドゥンのうち男性のジェロ・グデは大きな黒い仮面で、大きな白い歯が突き出ており、唇はとても赤い。また牙状の突出物が出ている。彼の頬と鼻は黒光りしていて、頬も鼻もまさに同じ大きさである。しかも頬と鼻は、ビリヤードの球に似ている。彼の左の耳には白い羊毛の束が覆いかぶさっていて、灰色のむさくるしい髪にはチュンパカ(訳註:フランジパニ)の花が撒いたように飾られている。顔には、小猿の柔毛の肌でできた多量の房飾りがぶら下がっている。彼の両手は大きくて黒く、白い印がついていた。そして大抵のジェロ・グデは格子模様のズボン吊とベルト、演者の身体を隠すことのできるカイン(布)を身につけていている。

(↓ジェロ・グデ)

 

いっぽう女性のジェロ・ルーの仮面はアイボリーもしくは白色で、眉は張り出しており、目尻は上がっている。さらに謎めいた微笑を思わせる長くカーブした唇と、胡桃割り人形のようなあごを持っている。ジェロ・ルーの仮面には、どことなく日本の能面のキャラクターが感じられた。彼女の頬と眉はふつう、金色で輪郭が描かれている。ジェロ・ルーが非常に洗練されていて、かつ尊大な創造物であるのは、綿モスリン製の胴着を着て、あちこちへぶらぶらと歩くことから明らかである。そして彼女の肩幅は広く、平らな胸には乳房を表す小さなポケットが取り付けられている。また、大抵かなり乱れている灰色の髪と花で飾った帽子のおかげで、庭仕事をしているイギリスの老嬢のようである。ジェロ・ルーの手は長くて白い。そしてジェロ・ルー、ジェロ・グデともに左手は踊りのポーズのような状態にある。すなわち、左手の中指をある方向へ向けたまま左腕を胴の前で静止させているのである。いっぽう右手は自由で前後に動く。その動きは特にジェロ・ルーの場合、何とも言いがたい無頓着さを醸し出している。

(↓ジェロ・ルー)

 

さて、鬼のような仮面に反してジェロ・グデは、村の居酒屋にいる滑稽な酔っ払いにかなり似ている。夜更けに家族をびっくりさせ、とても好色で、自分に対する冷たい評判にがっかりしている酔っ払いに。 

 

 筆者が今まで観たなかでもっとも優れたバロン・ランドゥンの上演は、デンパサール近郊の村で催されたものである。そこではサンダランに似た仮面の人形が、王家の血をひく役柄として3体登場した。そのうち2体が男性、1体は女性であり、それぞれが金の冠をかぶり、肩掛け、金箔が施された首飾り、金箔が施された長袖の衣装を着ていた。そして王子のカインは金色の素晴らしい花が刺繍されたアイボリー色の美しいものであった。

("サンダランに似た仮面の人形"  デンパサール市K村)

 

この時のジェロ・ルーは髪をきちんと結わえ、後頭部でまとめていた。また、そのときのジェロ・ルーの耳は、金色に塗られた革に細工が施されたうえに青い石もあしらったピアス、および耳掛け式の耳飾りで装われていた。彼女は道で会う大抵のバロン・ランドゥンよりもすべての点においてもっと壮麗で、高貴な表情や、金で眉と頬の輪郭が描かれた地色がアイボリー色の洗練された仮面、そして曲線を描いた唇は目だって魅惑的であった。さて、青と赤の花、椰子酒、卵、米から作った菓子などが入った椰子の葉でできた四角いカゴ状のお供えを、プマンクが仮面へ供えた。すると2体の巨大な人形が踊り始める。左右に揺れるようにして、或いは太鼓やシンバル類も演奏されているが、主にスリンの演奏に応じて、唄いながらゆっくりとお互いの周りを回る。そうやって彼らは軌跡を描きながら、ぎくしゃくした動きを行う。ジェロ・グデが笑うと、彼の体はブルブルと身震いして揺れた。そんなバロン・ランドゥンに対して、p.115→サンダランに似た小さな仮面をつけた人形たちの踊りはとても愛らしい。彼らの頭部は固定されていなかったので、中に入っている少年や男性たちが、人形の首を左右に動かす動きを操作してはエンゴタン(engotan)と呼ばれる動きの真似をおこない、感銘を与えた。また彼らはかなり多様性に富んだステップを見せる。たとえば、ゆっくりとした旋回や広範囲にわたって交差して歩くさまは、このうえなく惚れ惚れするような効果をもたらした。それに対してジェロ・グデとジェロ・ルーは、若い3人に仕える男女の従者、すなわちアルジャ(Ardja, Arja)(訳註:歌唱を伴う舞踊劇)に登場するプナサール(Penasar)とチョンドン(Tjondong, Condong)のように見えた。

(↓ デンパサール市K村)

 

しかし、対面で向かい合っておこなう伝統的な愛情表現の舞踊シーンを含んでいるけれども、動作は極めてわずかである。2体の白い仮面をつけた人形は、互いが向かい合って左右に通り過ぎたり、両膝をついて傾いたり、或いは、ゆっくりと体や足を入れ替えたために現れた上品で優雅なポーズの時に、何か奇妙な動作をおこなった。そして人間と人形の大小がとても簡単に逆転する。人形の中に操り手がいるのであるが、自分の担当した持ち分が終わって称賛を受けるとき、彼は滑稽なくらい大きく見えた。その光景はまるでアリスがラッパ飲みした後のようである。同時に観客は小人のように映り、バロン・ランドゥンの人形一座が意識を持つ者たちのように見えたのもおかしなことではない。さて、バロン・ランドゥンの仮面は、寺院もしくは僧職関係者の家の祠に収納されている。そのうちのいくつかは著しくサクティ(Sakti)、すなわち呪術的能力が高い。

 

 バロン・ランドゥン上演時にうたわれる詩を、ここには載せない。なぜならば言葉に関する問題をたくさん孕んでいるからである。しかし明らかにバロン・ランドゥンの詩歌は、遠く離れた中国やユーゴスラヴィア内陸部の農業圏にみられる求愛の歌の中心的な流れに属している。歌は対話形式となっており、めいめいの歌詩は4行形式で韻を踏んでいるのが一般的である。漢詩のように似ているものを述べつつ、最初の2行でたいていイメージを喚起させるようになっている。しかし「~に似ている」「~のようだ」などといった言葉は使わない。たとえば「溶かされているのは椰子殻のボウルに入っている砂糖・・・・愛しいジェロ・ワヤンを想うと私の心は溶ける」といった具合である。また、おなじみのアルバ*2のシーンもあり、「父に見つかるのが怖いから。母に見つかるのが怖いから」と、淑女は恋人へ立ち去るよう命じる。バロン・ランドゥン劇でうたわれる歌はロマンティシズムに満ちており、そのようなロマンティシズムはレゴンやアルジャを除いて、恋愛をテーマとしているバリのほかの舞踊や舞踊劇にはみられない。ひきつづき淑女は、恋の苦しみから逃れることができるよう一突きに殺してくれと頼み、「私が死んだなら、火葬塔にボマ(Boma)の頭をあしらってほしい」と、自分の葬儀の際に使われる火葬塔に関する指示を出す。

 

 バリの場合、古風で典型的な求愛の詩歌は儀式の中に存続しているが、至るところで平行して起きている現実の求愛や結婚とは無関係であるというのが事実である。それとよく似た例で、ハワイの場合、“認められない恋愛”という代表的なテーマは、儀式的な舞踊がおこなわれるホールに入ることが許されるためのパスワードとして用いられる(脚注1:Annual reports of the Bulletin of the Bureau of American Ethnology:N.B.Emerson, Unwritten Literature in Hawaii, No.38.を参照のこと 。しかし舞踊と恋愛に関する詩歌の関係はとても間接的であり、こじれた性質になる可能性が高いのかもしれない。たとえば古代中国の詩歌や、かつては恋愛に関する詩歌であったことを完全に否定されている、もしくはその点について忘れ去られている可能性がある旧約聖書のソロモンの歌と同じように。 

*1:ガルンガンよりもニュピ/Nyepiを新年の元旦と解釈するのが一般的かと思います

*2:alba。11世紀および12世紀頃に、プロヴァンス地方の吟遊詩人あるいは吟遊歌手のトルバドゥールたちがうたった恋愛詩。夜明けに恋人と別れなければならない辛さや悲しさをうたっている

The Drama of Magic. PartⅠBarong その13

Beryl De Zoete & Walter Spies 『Dance and Drama in Bali』p.109の35行目からp.113の29行目まで

1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

『トゥルニャン村*1のバロン・ブルトゥック』 

 

(原著写真No.43とNo.44) 

  1日の終わりを迎える頃に、とても異例のキャラクターが踊って締めくくることがなければ、この神秘的な祭儀は、舞踊に関する本の中に収まりのよい場所はほとんどなかっただろう。この神秘的な祭儀、つまりバロン・ブルトゥック(Barong Beroetoek, Barong Berutuk)は、p.110→椰子酒を流す儀式と、神々がこの機会に憑依したと考えられる老人2名が儀礼的に戦った翌日におこなわれる(脚注1:原著p.53を参照)。以下に紹介するように、若い未婚の男性たちはバロン・ブルトゥックのために一肌脱ぎ、かなり風変わりなドラマの排他的な役を演じる。そして誰もバロン・ブルトゥックの意味や趣旨はおろか、その由来や重要性も説明できないのではあるが*2ドラマティックな意味の類を持っている様子なのは明らかである。また、ブルトゥックたちのうちの2名は王と王妃のキャラクターを帯びているのが、疑いもなく感じられた。さらに、のちに説明するように、人々は独特の畏怖をもってブルトゥックたちを観ている。バロン・ブルトゥックを演じるために、18名のトゥルナ(Troena, Truna, 若い未婚の男性)*3たちが、選ばれた(ブルトゥックという言葉はおそらく「襲いかかる」「すみへ追い込む」を意味しており、この風変わりなドラマの演者たちが行うことをよく表現している)。まず演者たちは祈り、聖水をいただいたあと、お香の煙を身に受けるのであるが、この時の彼らの衣服は小さな腰布と、椰子の葉を編んだ縄を背中から胸にかけて回しているのみであり、それ以外は裸で頭にも何もかぶっていない状態である。そのあと、身支度が寺院の庭のへんぴな場所で行われる。これから演者たちが身にまとうブルトゥックの衣装は、バナナの葉でできた蓑のようなスカート状のものが、1人につき2つずつ。この蓑のようなスカート状のものは、祭儀の前日に、寺院の外で、大きな山のようになって干されていたのを筆者は見た。2つの蓑のようなスカートのうち、1つは首の周囲を囲むように結わえつけられ、もう1つは腰の周囲に巻きつけられた。そのために見た目は乾燥した葉でできた大きな繁みのようであるが、その下からは演者たちの白い脚が露出している。ブルトゥックたちは、メーデーのパレードに登場するジャック・オー・ザ・グリーン(Jack–O'–the Green)にいくぶん似ていた。
 繁みの上には仮面があり、それは丸い顔や卵形の顔、平べったい顔のもの、白、黒、グレー、赤色のもの、大きな耳を持っていて額にまっすぐな肋骨状のものがあるなど、さまざまである。ある仮面は真ん丸のジッと凝視したような目を持っていたが、半円状に黒色が入った目の仮面もあれば、ほかの仮面は単なる切込みを目としていた。先述の王と王妃はドゥルウェネ(Droewene, Druwene)と呼ばれ、まず歩き方によって識別される。王妃は踊り手のように、額の両側から上向きになるよう花のついた小枝状のもので装っており、大きな耳飾りもつけていた。しかし、これらの奇想天外なキャラクターたちの特徴は、奇怪な2本のアンテナのごとく、頭から伸びている約12フィートにわたる2本の鞭(むち)である。葉と乱れ髪に半分埋もれたグロテスクな仮面を載せた葉の束集団は、巨大な鞭で左右を打ちながら、ひょろ長い人間の脚を見せつつ、次から次へと寺院の階段を揺れながら降りてくる。そしてこれらの、神の恐ろしいボディ・ガードたちは、今から炎天のもと、何時間にもわたって寺院の外庭をパトロールするのである。ブルトゥックたちは手の届く範囲にいる人を容赦なく鞭で打ち、図々しすぎる侵入者たちを寺院の領域と隔てるぎりぎりの境界まで追跡する。そのため、すぐ外の、寺院の内部の様子が見渡せる良い場所は、地元の全住人と湖*4に面している村々からやってきた沢山の観衆たちで、いっぱいだった。たとえば壁の後ろに隠れて覗いたり、大きなワリンギンの樹に登ったりして、観客たちは危険を伴う戯れを楽しんでいた。というのも、ブルトゥックたちの長い鞭の打撃は、丸い角を狡猾に曲がりながら、不意に行われるからである。また、長い鞭は長くて残酷な舌のように、時には木の枝にたくみに入りこむこともあった。観衆たちは絶えずおしゃべりをしていて、鞭が空振りに終わったときは、あざけり笑うような爆笑の渦が起きた。あるいは、鞭が演者の脚に絡まったために、図々しい侵入者がちょこちょこ走って無事に逃げおおせたときは、歓喜の叫びが方々から起こった。ただし、ブルトゥックたちの悪意の唯一の例外は、女性たちがお供えを寺院に運ぶときである。彼女たちは寺院の外庭を通ることが折々許されていて安全であり、p.111→お供えの籠をブルトゥックたちへ預ける。するとブルトゥックたちはお供えを届けるよう定められているので、祠へ向かってよろよろと歩きながらお供えを運ぶ。また、ブルトゥックたちの欲望は小さな子どもたちにも向けられる。父親の腕の中でお供えの一部やお供えの玉子が欲しいと泣いている子どもへ、気立ての良いブルトゥックはそれらをわけてやる。しかしぐずぐずしている暇は絶対にない。休戦の時間が終わるやいなや、すぐに別れの鞭打ちが足を急がせる。王は誇らしげに葉の礼服をサッと音を立てるという独特のやり方で、気取って歩き回っている。また王の乾燥した葉には、バロンのあごひげの髪の毛もしくはある種のバロンの身を覆っている羽や繊維・髪の毛といった素材にこめられているのと同じく、独特の気や力といったものが備わっているように見えた。たとえば、何人かの勇気ある若者は、ブルトゥックが通り過ぎる際に、葉をむしり取ろうと冒険的に試みた。その間に他のブルトゥックが背後にやってきて鞭で叩かれる危険が常にあるにもかかわらず、である。また時には、王が通り過ぎる際に子どもを抱えた年配の女性が安全な場所から這って進み出ると、子どもに幸運をもたらす葉を求めて、危険を顧みずにひざまずいていた。そのとき王は、恐れている子どもへ、近くに寄ってくるよう優雅な合図を送った。子どもはひざまずきながら震える手で1つかみの葉を急いで取ると、ただちに安全な場所へ全速力で戻った。なぜならば、次の瞬間には子どもを脅かすかのごとく、王は鞭を振り上げたからである。そして時々ブルトゥックは2本の指を立てて、煙草を持ってくるよう、サインを出す。そこで非常に度胸のある人が危険を冒して近づき、ブルトゥックの手に煙草を載せようとすることがある。しかしブルトゥックが公平なことは滅多にない。急いで安全な場所へ移動しようとする人へ、鞭で襲いかかるのが普通である。また、煙草を取ろうとしてブルトゥックから人間の手が出てくるのは、とても不可思議な光景であった。もっとも、グロテスクな仮面の裏にはバリ人がいて、その人間の顔に仮面がつけられていたこともわかっていたし、人々の感覚は1日中ずっと寺院の構内をぶらついて鞭を巧みに使う、突然現れた奇怪な生物に支配されていることもわかっていたのだが。そして、寺院の構内でブルトゥックをもの笑いの種にする人はいない。ひょっとすると観衆たちは、安全で見晴らしの良い場所からブルトゥックたちをからかって楽しんでいた可能性もあるし、あるいは、鞭の紐が樹の枝に絡まってどうしようもない時に、それを見て爆笑していただろう。しかしブルトゥックの中に入っている演者たちはとことん真剣で、とても危険な状態を我慢している。長時間の厳しい試練による疲労、ことによると自分の役割に対する想像力が、彼ら自身をトランスのそれと似た状況へ引き起こす。時々、あちこちでブルトゥックたちがひどく疲れて崩れるように倒れ、変装をしていないトゥルナたちが倒れたブルトゥックを扇いでいる。そのトゥルナたちは事実上、鞭を打たれることからは多少免除されていた。あるいは休憩をとるために寺院へつたって登るブルトゥックもいた。しかし彼の鞭を結わえ付けているひもは結び付けられたままだったので、寺院の中へ移動してもそのブルトゥックは左右へ鞭を放つことになったのかもしれない。

 

 正午頃、一続きの階段を降りたところに位置し、寺院が所有する豪壮なバレ・アグン(Bale Agoeng, Bale Agung)と呼ばれる集会所で、いくつかの儀式的なバリス(Baris)舞踊が演じられた。そこではガムランもあり、女性たちがお供えを作ったり売ったりしていた。しかし観衆たちは概して、階上の寺院で繰り広げられていることに熱心であった。なぜならば夕方近くまで、ブルトゥックたちの途方もないパレードが続けられるからである。そして夕方4時ごろ、突然、階下の寺院へ向かう全員一斉の雪崩が発生した。怪物たちは、自分たちの前にいる人たちを追い払うかのように鞭打ちながら、突進するかのごとく大慌てで階段を下りてきたのである。P.112→供物を高いところの祠へ供えようとしていた女性たちや僧侶たち、ガムランおよびガムランの演奏者たち、商品を並べたテーブルの前にいた女性の売り子たち等、全員がブルトゥックたちの恐ろしい鞭の届く範囲に入ってしまった。そして狼狽の叫び声や大笑いの声が混ざりあう中で、全員が真っ逆さまに吹き飛ばされた。ブルトゥックたちは仮面を脱ぐ前に、思いっきり激情を新たに爆発させている様子であり、いっぽう人々は彼らの攻撃を受けないようにするためには、実際にかなり高い壁を登らなければならなかった。どの屋根やどの高所の上にも顔、顔、顔で、顔以外には何もない。そして人のいない庭では、ブルトゥックたちが餌食たちを求めて、鞭を打ちながら野生的な踊りを踊っている。その様子に較べて奇妙に対照的だったので筆者は覚えているのだが、1人の少年がブルトゥックたちに混ざって、まったく無頓着に足の向くままぶらぶら歩いていた。きっと彼はトゥルナの1人であり、特権を与えられていたのだろう。なぜならば、彼はとても軽く鞭打たれる程度で済んでいたからである。

 

 そしてついにブルトゥックたちの手にしていた鞭が、1つまた1つと撤去され、彼らは特別に神聖なバレ(bale,建物)の階段に沿って1列に横たわった。そこで、ブルトゥックたちは自分たちの任務をいったん終えて、そよ風にあたっていた。しかし特に凶暴なブルトゥックが1人いて、彼を捕まえるには長い間てこずった。これから先、中庭ではもっとも感動的な見ものである王と王妃の舞踊が演じられなければならなかったのに、彼のせいで中庭に下りるのは一時、危険な状態になったほどである。だがしかし、ようやく観衆たちが舞踊を安全に観る時が訪れた。王と王妃を演じる演者たちのスカートのような蓑は外され、たくさんの葉でできたマントのものだけが、相変わらず演者の身を装っていた。そして仮面が2つの古い仮面に取り替えられた。その2つの仮面は、もともと寺院で偶然に発見されたものということである。王と王妃は最初、地面に座りながら踊った。2人はカサカサと音を立てる葉っぱ製のケープを常に左右へ急いですくめるので、その姿はまさに巨大な鳥が怒ったり怯えたりして羽毛を立てているように見えた。それから2人は立ち上がり、互いに向かい合って、素早いサイドステップであちこちへ疾走した。すると土埃がもうもうと立ち上がり、その中に2人がいるように見えた。さらに2人は葉っぱ製のケープを荒々しく震わせるので、まもなく地面は葉で覆われた。そのあと2人は一瞬、飾りつけが施された竹製の槍旗のそばに落ち着いたが、ケープを荒々しく震わせるのをやめることは決してなかった。王妃はまさに、彼女へ飛びつかんとする王から巧みに逃れ続けている様子であり、両者は半狂乱で跳ねたり、飛んだり、あちこちへ矢のように突進していた。それに対して観衆たちは、叫び声をあげたり嘲笑的な言葉で、王を激励した。ガムランは王と王妃の風変わりな舞踊の伴奏をせず、音といえば2人の衣装の乾燥した葉が擦れるカサカサという音と、観衆たちが励ます叫び声だけである。両者の舞踊が激しくなるにつれて、何かが起こりそうな戦慄もクレッシェンドになっていく。そしてついに、2人は激しい抱擁で舞踊を締めくくった。しかしそれは、ほんの瞬時のことであった。両者は離れると、身につけていたケープをひきはがし、湖へ向かって電光石火の速さで勢いよく走り出した。それに続いて2人と同じように衣装を脱いだほかのブルトゥックたちも走り出し、そのあとにほぼ全員の観衆たちが続いた。ブルトゥックたちは仮面をそれぞれ頭の上に載せていて、夕陽で出来たシミ1つない鏡が彼らの姿をくっきりと映し出していた。そしてブルトゥックの演者たちが湖[訳註:バトゥール湖]の中へ飛び込むと、疾走は終わった。火山[訳注:バトゥール山を指す。バトゥール山は活火山。バトゥール湖はかつてバトゥール山が噴火したときにできた]が損傷した姿で湖面に映っている中に、仮面が浮いているという光景は、ことによると全ての中でもっとも奇妙な見せ場だったのかもしれない。しばらくの間、奇怪な顔が湖の上を漂いながら泳いでいて、彼らの生気のない眼と脅迫するような歯が空を凝視していた。

 

 そうしているうちに、王の葉っぱ製のマントは湖岸に広げられ、その上にはカイン・グリンシン(kain gringsing)*5が広げられた。僧侶は供物を供え、顔を湖へ向けた。するとブルトゥックの演者たちが1人また1人と湖からそっと歩いてきて、仮面を外し、p.113→普段着に着替えた。仮面はカイン・グリンシンの上に2列に並べて置かれ、王と王妃の仮面は他の仮面よりもわずかに高い位置に置かれていた。僧侶は小さなたいまつを点し、彼が祈っている間、たいまつは上方から照らしていた。年配の女性と若い男性が1名ずつ、供物を供えた。ブルトゥックを演じていたトゥルナたちは円状になってひざまずいている。彼らの疲れた顔が、ゆらゆら揺れるたいまつの火に照らされて、ちらりと見えた。演者たちには何度も何度も聖水が撒かれた。そして仮面たちにも同様に、聖水が撒かれた。さらに観衆たちのたくさんの顔や手が、聖水を自分たちにも割り当ててくれるよう、せがんでいた。

 

 そのあと、夕闇が迫ってきた。若い男性たちが頭の上に載せた籠に仮面を入れて、寺院へ返しに運んでいった。

 

 のちに筆者はマイヤーヴィッツ氏(Mr. Moyerowitz)から、ナイジェリアのエグングン(Egungun)の踊り手たちが、ヨネバ(Yoneba)と呼ばれる、先祖が踊る儀礼で用いる仮面の写真を数枚見せてもらったことがある*6。トーテムの動物たちを表現している仮面にはラフィア椰子やパーム椰子の細長い飾りがついていて、踊り手たちの外見は、好奇心をそそられるくらいバロン・ブルトゥックと奇妙に似ていた*7。もっとも筆者は外見の類似点が面白そうなので気になると述べているだけであり、双方の詳細な比較を行うつもりはない(脚注1:B.Laubscherの著作『Sex, Custom and Psychopathology』p.128を参照)。

 

 さて、動物の仮面を用いる数々のバロンのうち、筆者たちが今も見る機会を得ていないものは、鹿のムンジャンガン(Mendjangan, Menjangan)、馬のジャラン(Djaran, Jaran)、犬のチチン(Tjitjin, Cicin)、山羊のカンビン(Kambing)、中国の虎[訳注:原書ではchinese tiger。アモイトラ]の1種であると言われているけども何の動物であるのかはっきりとしないウズラのプウ(Poe’oeh, Puuh)である。そしてバロン・グゴンブランガン(Barong Gegombrangan)について触れておかなければならない。バロン・グゴンブランガンでは一見、レヤックがランダの代わりをしている。そしてレヤックがランダのような衣装を着て「地面を掃除する」長い舌を出しているので、どうやってランダを区別するのか、そのからくりを説明するのは困難である。またこの形式のバロン劇には独自の筋書きがあり、上演グループがギャニャール地方を周っている時にサヤン(Sajan, Sayan)村にも寄って、時々演じるという。最後に、バロン・ブラスブラス(Barong Blas-blas)[訳註:バロン・ブラスブラサン Barong Blas-blasan, Barong Belas-belasanとも呼ばれる]について。これは舞踊ゲームの1種で、バロン(訳註:バロン・ブルトゥックなどをさす)が出かけて村にいないガルンガンの時に、しばしば演じられる。このバロンにはバロン・ブラスブラスという名称を除いて、バロンと何らかの繋がりがあると想像するのは難しい。そしてバロン・ブラスブラスではワヤン・ウォン(Wajang Wong, Wayang Wong)劇に用いられる猿の仮面をつけた相当数の男性や少年たちが、家を一軒ずつ訪れたり、通行人たちを追いかけたり、またプンチャック(Puntjak, Puncak)[訳註:伝統武術や武道の1種]にかなり似たスタイルで小規模な対戦をおこなう。山岳地方の村では、演者たちはランダのように毛足の長い、毛羽立ったヤシの繊維で装っているとのことである。

*1: バリ・アガ/Bali Agaと呼ばれるバリ先住民が居住する村はいくつかあるが、トゥルニャン村もそのうちの1つ

*2:I Made BANDEMとFredrik Eugene DeBOERの共著『Balinese Dance in Transition』1995(Second Edition)Kuala Lumpur: Oxford University Pressに詳しい説明がある。James Danandjajaの著作『Upacara-upacara Lingkaran Hidup di Trunyan』1985 Jakarta : Peneribit Nasional Balai Pustakaはタイトルから察するに詳細な記述を含むと思われる。

*3:トゥルナはバリ語で「未婚男性」を意味する。この章では、トゥルニャン村成員の子どもたちで、なかでも未婚男性たちによって構成されている青年団に所属するメンバーたちのことを、著者はトゥルナと呼んでいる

*4:バトゥール湖。トゥルニャン村はバトゥール湖の湖畔に位置する

*5:訳註:バリ島先住民のバリ・アガが居住するテンガナン・プグリンシンガン村で制作される織物。経緯絣あるいはダブル・イカットと呼ばれる技法は世界的にも珍しく、織りあがるまでに5年以上の年月を要することもある。その過程では各種の儀礼がおこなわれ、グリンシン布の制作に関する規律もある

*6:ヨルバ族のエグングンは先祖を表現しているといわれ、Odun Egungunと呼ばれる儀式や、葬儀なども含む家族に関する儀礼にも登場する。また路上にも登場し、踊り、叫び、徘徊する。なおエグングンという言葉は「骨」を意味する。ヨネバに関しては不明

*7:仮面以外はあまり似ていない気もする

The Drama of Magic. PartⅠBarong その12

Beryl De Zoete & Walter Spies 『Dance and Drama in Bali』p.105の28行目からp109の34行目まで

1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

『Kalekek』((Kalekekの発音ならびに日本語表記がよくわからないのですが、とりあえずカレクッとしました。正しい読み方がわかり次第、訂正します))

 

 ここに紹介する複雑な話には、かなりの数のキャラクターが登場する。それらキャラクターたちはいろいろに変身して、墓地という奇妙な場所に足しげく通う。墓地はバリで数多くの重要な出来事が起きる現場である。

 

 あるとき、シバ(Civa)神と彼の妻であるデウィ・スリ(Devi Sri)女神がワララウ(Waralaoe, Waralau)山を歩いていた。人や動物の気配がない美しい場所のそばに来たとき、シバ神は妻とともに楽しみたくなった。しかし妻のデウィ・スリ女神にそんな気持ちはなかった。なぜならば、そんなことをするにはその場所はあまりにも荘厳で神業のなせるような場所だと彼女には思えたからである。シバ神はそんな気持ちのデウィ・スリ女神をなんとかしようと躍起になった。そうこうするうちに、シバ神の精液が2滴、山のくぼみに落ちてしまった。シバ神は精液を無駄にしたデウィ・スリ女神に腹を立て、2滴の精液へマントラを唱えた。すると2滴の精液から男女1人ずつの双子が産まれた。しかしシバ神は子どもたちを残して、デウィ・スリ女神とともに立ち去った。その後、天国に着いたシバ神はお腹を空かせて泣いている子どもたちの声を聞いた。そこでシバ神は子どもたちのもとに戻り、自分が父親であることを2人へ告白した。さらにシバ神は子どもたちをカラウェナラ(Kalawenara)、カレクッ(Kalekek)と名づけ、2人へ墓場で食べ物を見つけるよう命令した。さらにカラウェナラはティティ・ゴンガン(Titi-gonggan 注:プラ・ダレムの外側の溝にかかっている木製や竹製の小さな橋のこと。天界と地上の間のどこかにも小さな橋がかかっていて、それはティティ・ウガルアギル/titioegalagil, titi ugal-agilすなわち吊橋と呼ばれている。罪深い魂はティティ・ウガルアギルを渡る時にバランスを崩し、火が燃え盛る溝、あるいは刃が上を向いて突き刺さるのを待っているクリスたちの溝に転落するといわれるがわたされている、魔力ある湧き水のそばに住み、そこを司るサンヒャン・プトラジャヤ(Sanghyang Poetradjaja, Sanghyang Putrajaya)という名の神に仕えることと、お供えのなかでもお供えに添えられた硬貨、もしくは火葬のお供えの1つである硬貨を食べ物とすることを命じられた。カレクッの場合は正午から以降という制限つきで、死者のためのお供えを食べてもよいと定められた。

 

 話は変わり、夫のシバ神からいくぶん愛想を尽かされていたデウィ・スリ女神は、夫の協力を得ずに子どもをつくることができるかどうか考え始めていた。そこで彼女は、暗い考え(注:死に関連した考えに満ちたプラ・ダレムへよく足を運ぶようになった。そしてカジェン・クリウォンの満月の日(呪的な力が効力を発揮する日)に、従者たちとともに墓場の真ん中にある水の噴出口へ沐浴に訪れた。そこで偶然、出産で亡くなった女性の墓の上にデウィ・スリ女神は衣服を置いた。翌日の夜、デウィ・スリ女神はドゥルガ(Durga)女神に変身して同じ場所を訪れ、死体に呪文をかけると少女が産まれた。さらに後産からは少年を作った。ドゥルガ女神に変身したデウィ・スリ女神は少女をブタ・スリワール(Boeta Seliwar, Buta Seliwar)と名づけ、少年にはチュウィルダキ(Tjoewildaki, Cuwildaki)という名前を与え、2人に墓場の管理者となるよう命じた。しかしブタ・スリワールが「自分の魔力はそこまで強くない」と訴えたので、ブタ・スリワ―ルの名前をスリワルマヤ(Seliwarmaya)に変え、クプーkepoeh(kepuh)の木(注:墓場に生えている木。葉の落ちた季節には赤い花が花盛りになるを住まいとして与えた。つぎにチュウィルダキにはまだ火葬されていない死体の魂と合体し、亡者に縁のある家で災いを起こすよう命じた。そして、かつてシバ神が自分の子どもへ定めたのと同じく、ドゥルガ女神に変身したデウィ・スリ女神もブタ・スリワ―ルとチュウィルダキの食べ物を死者へのお供えものと定めた。さて、シバ神の子どものカレクッは死者への新たなお供えを奪った。その時のカレクッはバロンに変身してあちこちを歩き回き、墓場へ行ってお供えを食べたのであった。しかし人々は誰がお供えを盗んだのかわからなかった。なぜならばカレクッの変身した姿は、人間の目には見えないからである。かたやデウィ・スリ女神の子どものチュウィルダキは食べ物が来るのを待っていたとき、人々が走り去り、カレクッがお供えをむさぼり食っているのを目撃した。そこでチュウィルダキはスリワルマヤを呼び、スリワルマヤとチュウィルダキの2人が食べ物であるお供えをめぐってカレクッと闘った。そして2人を相手にしたカレクッは負けてしまい、灰になるまで燃やされてしまった。勝者のスリワルマヤとチュウィルダキの2人は、カレクッが自慢していた呪力の程度をあざ笑った。そのころカラウェナラはティティ・ゴンガンに座って姉のカレクッが帰ってくるのを待っていた。しかしカレクッは帰ってこない。そこでカラウェナラはサンヒャン・プトラジャヤ神に頼み、カレクッを探しに行く許可を得た。しかしそれでもカラウェナラは「カレクッは食べすぎで動けないのだろう」と想像していた。そしてカラウェナラは墓場に着いた。墓場で彼女を呼んでみたが返事はなく、そこには灰の山があるだけであった。サンヒャン・プトラジャヤ神はカラウェナラが空しく呼ぶ声を聞いて、墓場へやって来た。サンヒャン・プトラジャヤ神は灰の山がカレクッのものであることがわかった。カラウェナラは祈り、灰へ呪文を唱えて、灰に命を再び取り戻させた。すると蘇ったカレクッは、獰猛なラクササとその姉がお供えをめぐって戦いを挑んできて自分を殺したことを話した。その話を聞いたカラウェナラは怒り叫び、「自分がスリワルマヤとチュウィルダキの2人を相手に戦ってやる」と挑発した。その挑発を聞いたスリワルマヤは激怒に鼻を鳴らしながらクプーの木から降りてきた。しかしこの時点だとスリワルマヤは自分が負けることをわかっていたので、自分を助けるよう弟のチュウィルダキを呼んだ。するとチュウィルダキは腐敗した死体の上で転がってから、カラウェナラへ飛びついた。カラウェナラは死体の悪臭に耐えられず、カレクッを連れてこようと逃げだした。カレクッはバロンに変身してやってきて、舌で悪臭をなめとった。すると、自分の子どもたちが負けて助けを求め叫んでいる声を聞いたドゥルガ女神がやってきて、口から炎を吹き出した。そして全員、一方が先頭になったり、もう一方が後になったりしながら、ひた走りに走って追いかけあい、ついにシバ神の領域に辿りついてしまった。シバ神は、すぐ後ろでドゥルガ女神が追っている一団がやって来たのを見て大変おどろいた。そこで彼はドゥルガ女神へ「なぜ私の子どもたちを追い回しているのか」と尋ねた。ドゥルガ女神は答えた「あなたのけがらわしい子どもたちが、私の子どもたちへ絡み続けるからですわ」。その答えを聞いて驚いたシバ神は「どこでお前(訳注:ここではドゥルガ女神。妻のデウィ・スリ女神はドゥルガ女神に変身している)は子どもを作ったのか?」と尋ねた。ドゥルガ女神の説明を聞いたシバ神は激怒し、妻のドゥルガ女神へその顔を2度と天界で見せることのないよう命じた。さらにシバ神はドゥルガ女神が永遠に墓場で滞在するよう運命づけ、カレクッに墓場でドゥルガ女神を監視するよう命じた。そしてシバ神はカレクッにバナスパティ・ラジャという名前を授けた。カレクッが負けそうにみえると、バナスパティ・ラジャの従者たち(クリス・ダンサーたち)はドゥルガ女神を殺したくなる。しかし彼らはドゥルガ女神を殺すことは禁止されているので、激しい怒りを自分たちの体でなだめるのであるという。

 

 筆者たちは、興味深いこの物語が何らかのかたちで舞台で演じられるのを観たことがない。しかしテガルタム(Tegaltamoe, Tegaltamu)のバロン劇で、カラウェナラとカレクッがシバ神の従者姉弟として登場するのを観たことがある。そのバロン劇ではカレクッはシバ神の料理人であり、地上のバリに降りてきて本物の米を味見する許可を得た。その理由は、カレクッが天界にのみ届けられる精神的で目に見えないお供えの精髄に飽きたからである。

 

 このバロン劇は、プラ・ダレムの外にある墓場に立つバニヤンの巨木の木陰で演じられる。寺院の門につながる一続きの階段があり、さらに先には第一中庭を区切る高い壁へ至る階段があって、重要な登場人物たちが登場する時にとても効果的に使われる。プマンクが各種のお供えを供えたのち、カラスの光沢ある羽をまとったバロンがいつもどおりにソロで登場した。バロンはアチチュード(訳注:バレエのポーズの1種。片脚で立ち、もう片脚は膝を曲げて上げる)や数々のステップなど、動きの豊かなレパートリーを見せる。つづいて立派な役人が(Penasarプナサール)が仲間の道化たちとともに門で気取ったポーズをとり、カラウェナラの到来を告げた。まもなくジャウッ姿のカラウェナラが、長い爪を震わせながら仕草やジェスチャーをしているのが寺院の壁越しに見える。ジャウッが展開した舞踊は、何かを探しているような真に迫る踊りであった。人の注意を引く輝いた出目を四方八方へ矢のようにさっと動かし、それはまるで彼が地面をジグザグにすばやく進んでいるかのようである。凝視による表現は見事であり、好奇心いっぱいの仕草、休みのない動作、そしてカレクッの行方を考え込んでいるポーズ。そもそもこの劇は、長い間不在の姉を案じて地上に降りてきた彼の登場をもって始まる。彼の見事な舞踊が終わると、それまでの出演者は全員、寺院へ姿を消す。

 

 次に登場するのは女性の従者(注:男性が演じるである。彼女は踊っている最中に、自分は死者へお供えを供えにきた遠方の王の従者であることを説明する。彼女はお供えの運搬人の到着を待ち続けている。やがて女性に扮した3人の道化が、頭の上でお供えを運びながら到着し、風変わりな墓場の舞踊を踊る。さらに王の従者が2人登場する。その従者たちは黒と白のチェックの衣装を着て顔を白塗りにし、僧侶がお供えを作ったり供えたりする仕草と伝統的な舞踊を過度におかしくパロディにして演じた。ひきつづきバロンに扮したカレクッが寺院の階段を降りてきて登場し、良い米がたくさんある光景に歓喜して笑いながら、せわしく駆け回る。彼女(訳註:カレクッは少女だったので、ここではバロンも「彼女」となる)はもちろん目に見えない存在という設定であるため、バロンの笑い声を聞いた従者たちは、あわてふためいて低木の茂みに隠れたり、木によじ登ったりして、恐怖のあまり、わけのわからないことを言っている。いっぽうバロンは歯を鳴らしながら、打ち捨てられたお供えの中を優美に歩き、お供えを足で弾いてひっくり返したりしている。

 

 舞台空間で騒がしくやっているあいだに、墓場よりも低い場所に立つバニヤンの木の下の小さな祠で、ラルン(注:原著のp.101を参照→ 当blog「The Drama of Magic. PartⅠBarongその9」を参照の仮面にお供えが供えられている。まもなくラルンの恐ろしい姿が低木の茂みから現れた。彼女は墓場の正体不明の笑い声を調べにきたのである。喉を鳴らし、叫び、踊り跳ねて歩きながら、ラルンはカレクッ(訳註:ここではバロンを指す)に対面しようと前進してくる。悲鳴をあげながら痙攣していた滑稽な従者たちは、恐怖のあまり突拍子もない間抜け者になってしまったという様子で、魔物の敵対者の脚のあいだを素早く身をかわして逃げる。従者たちのその滑稽さは恐怖とは反対の、並外れたバランスとして機能していた。ラルンはカレクッ(訳注:バロン)を非難して「死者へのお供えを盗んだ」と言う。そしてラルンとバロンは互いに、舞台空間の周囲を怒った足取りでゆっくりと歩きまわった。さらにランダの弟子たちであり、魔女の初期段階にいるレヤック(leyak)たちが侵入し始めた。ラルンはランダに援軍を求めたのである。レヤックたちのうちの1人は口を突き出した白い仮面をつけており、途方もなく愚か、かつ至福の表情であった。そのレヤックは、寺院の門を出たり入ったりしながら漠然と凝視して盗み見をしている。息の一吹きで今すぐにでも吹き飛ばされる覚悟であろう。それにもかかわらずいつ何時でも再び現れる体勢でずっとコソコソ動いていた。

 

 次にランダが、自分の旗にはさまれて壮大な登場に臨む。笑った仮面のレヤックたちがランダを取り巻いている。著者たちはまず、ランダが階段のいちばん上にいるのを見た。白い布で覆われたランダは、別の布を手の中で揺らしている。ランダはレヤックたちの肩の上に飛び乗った。門の下をくぐる運搬人たちの肩の上でランダが屈むと、真紅の舌と立派な金色の額、牙と強烈な歯が輝く。下段に到着すると、ランダは自分の体をまっすぐにさせて直立した。同時に喉を鳴らし、長い爪を動かすと、それはまるで空中で織物を織っているようであった。さらに、荘厳で仰々しい行事を真似るかのように、自分の旗をつかんでいるランダ(注:旗の先が交差されると、それはランダが空を飛んでいると解釈される)がゆっくりと前方に運ばれてきた。量が多くて長くふさふさとした彼女の白髪は、彼女の下で運搬人としてよろめいているレヤックたちに覆いかぶさって揺れている。そしてランダは地面に降り立ち、背中をバロンに向けたまま寺院へ突進した。さらにランダは前方へ踊り跳ね、体を後方へ反らす。すると彼女の長い髪は地面を一掃した。続いてランダとバロンが異様で壮大な闘いを繰り広げたが、その闘いはランダの呪術的な布がバロンを負かすことによって終わった。バロンは寺院の階段でひれ伏している。その姿は燃やされたカレクッの灰を表現している。次にジャウッの姿でカラウェナラが門に現れた。彼はクリスでランダを攻撃するのである。ランダとジャウッは急いで階段を降りる。騒然とした音楽に合わせてジャウッは舞台空間を飛び跳ねるように横切り、ランダへ飛びかかった。そこでカラウェナラ(訳注:ジャウッ)は千の腕を持ち、天へ行くことができる超自然的な姿に変身したのである。半狂乱の美しい舞踊が展開され、彼は山の中、海の中を問わずランダを追いかける。雲の中から、墓場からランダの声が聞こえ、ランダの不可視の魔法の布がカラウェナラの追跡を邪魔する。次にシーンはがらりと変わり、天界の場面となる。ランダとカラウェナラはシバ神の前でひれ伏している。ここでシバ神は、従者にもたれかかっているプダンダ(訳註:高僧)の姿として登場する。ジャウッは素晴らしいパントマイムでカレクッが燃やされたことを説明し、道化のカルタラ(Kartala)がそれを言葉で説明する。高僧(訳註:シバ神)は尊大なしわがれ声でランダを叱った。そしてカラウェナラをなだめ、カレクッに再び生命を与えて復活させると約束する。すると、バロンがかすかに動いたように見えた。バロンの仮面は地面に平らに置かれていたのであるが。つぎにバロンは呼吸し、自分のすべての装飾を揺さぶり始めた。さらに口を開け、肩を上下に持ち上げ、徐々に生命を取り戻し始めた。その様子は飛び上がる前に身をかがめる野生の動物のようである。いっぽうランダは別の白い布を与えられ、その布に何かを命じるかのように寺院の前で熱弁をふるっている。まもなくランダはゆっくりとバロンに近づき、仮面に触れた。ランダはバロンの額を持ちあげたようである。ランダがバロンから離れると、バロンは歯を鳴らし、4本足でひょいと立ち上がった。そして立ったまま武者震いしているランダを見つめた。バロンは荒々しい返事を返し、ランダは白い布をバロンの口に押し込んだ。(注:墓場の領域は、ランダと彼女の弟子であるシシヤsisiyaたち、そして今はカレクッがその姿へ変身しているバナスパティ・ラジャと彼のブタやカラたちとで、占拠しあっている

 

 音楽が不穏な興奮とともに鳴り響いている。突然、ついさっきまで舞台空間の端の低木の茂みで待ち伏せしていた男性たちが、クリスを振り回しつつ狂気じみた叫び声をあげながら、ランダへの前へ決然と勢いよく進み出た。ランダは寺院の階段へ退き、彼らを嘲り笑う。彼らはランダの布によって追い返され、低木の茂みへ飛ばされた。彼らは都合4回ランダの前に進み出て、4回撤退させられた。そして回を深めるごとに、男性たちはトランスの度合いを深めていった。前進したり退却したりする波を繰り返しつつ、目を閉じたまま脚を高く上げて様式化されたステップで進む彼らは、こっそりとランダ側へ移動した。そしてついにランダを寺院のほうへ追い詰めた。憑依の嵐は緩みだした。何人かはランダへ体当たりしようと狙っていた様子であったので、壁や門から引き下ろされなければならなかった。バロンがゆっくりとした足取りで前方にやって来た。バロンの仮面は小刻みに震えている。まもなく前脚の踊り手がトランス状態で地面にうつぶせになった。そして彼の役目が他人にとってかわられた。荒々しい集中力で野生的なジャンプをしたり身を曲げたりしながら、トランス状態の男性たちは自分の身にクリスを突きたてる。間断なく彼らの激昂があらためて発生している。数人の男性たちは、好奇心をそそる様式化されたステップを踏みながら、不安な幽霊のようにぶらぶらと周囲を徘徊している。そして、聖水の入った容器を持ち上げたプマンクが揺れ始めた。プマンクは1種のお供えとしての舞踊を踊り始めた。それと同時にお供えが寺院から運びこまれ、地面に敷いた敷物の上に安置された。トランスに入っていた男性たち1人ずつから、手にしていたクリスをもぎとられ、それぞれの頭は順番にバロンのあご髭の下に隠れた。そしてクリス・ダンサーたちは聖水をふりかけられ、多数の人々は聖職者が儀式を執り行っている敷物の周りに集まった。最初と同じく、若い未婚女性たちがラルンとランダの仮面が入った籠を頭の上に載せて、バロンのそばに立っている。極度の憑依状態に陥った者たちがトランスからの解放を承諾するまでには、長い時間がかかった。そのうちの1人はバロンの前脚の踊り手であった。(原著:写真42)

The Drama of Magic. PartⅠBarong その11

Beryl De Zoete & Walter Spies, 『Dance and Drama in Bali』p.104の4行目からp105の27行目まで

1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

一般的にクリス・ダンサーの総数は多い。しかし筆者はたった1人しかいない場に遭遇したことがある。ながいあいだ、世話人たちはてこずりながら彼を押さえつけていた。ランダの退場を待って、彼は低い唸り声をあげながら前方に走り出してきて、バロンの脚に抱きついたり、頭をバロンの口に突っ込んだりした。供物が男性たちの頭上越しにすばやく運ばれてきて、バロンの前に敷かれた敷物の上に置かれた。黄色く輝く素晴らしい星が山肩のそばにあがり、三日月ごろの若い月が椰子の葉の間に昇っていた。しかしトランスに入った男性は、まだ踊り続けている。供物運搬にかかわった男性の1人が彼と一緒に、メンデット(Mendet,Pendet)の1種を踊りだした。夜になった。トランス状態の男性が踊りをやめなければ、椰子のたいまつに火を点し、野獣のような男性をこっそり追跡するのである。そこで人々は彼を捕まえてバロンのそばに連れ出し、聖水で浄めてトランスから覚醒させようと、そのそばに近づく。

 

 バロン劇上演に関する記述だけで、1冊の本を作り上げてしまうことも可能である。なぜならば、たいせつな細目においても、各村で考え方ややりかたが異なるからである。こんなにヴァラエティに富んでいるものを、少ない枚数に詰め込んで記述するには、どのようにすればよいのか?また、それぞれの特徴や特質をまとめるには?あいにく、同じような問題はバリのあらゆる舞踊を記述するさいに生じる。ありふれた形式をとってはいるが、踊りの数々はヴァリエーションに富んでいる。たとえ観たことがある舞踊の楽しさや喜びを伝えようと思っても、ヴァリエーションの豊かさは1つだけを取り上げて記述することを許さない。バリの舞踊はそのことを念頭に置くよう、筆者たちに宣告しているかのようである。また一般的な写真を提示しながら、若干の報告をおおまかにまとめることを強いられても、それは事実を示しているにすぎない。なぜならばバリのどの舞踊も舞踊劇も著しく個性的であるから。仮に何らかの共通点があるとすれば、それは最新の知識や情報を観察して、あるいは、状況を判断してふさわしいやり方を取り入れようとする「自然の法則」である。これに気がつけば申し分のない、優れた研究ができるだろう。たとえば「バロン劇は夕暮れまでにいつも終わるものだ、日が暮れてからは演じられない」と一般的に言われている。しかし、ある時に筆者たちが観たバロン劇は、その言葉どおりではなかった。登場するにふさわしくない時間がしばらく経過したあとで、バロンは居場所から出てきたのである。そして暗闇のなかで、光輝く立派なたてがみをなびかせていた。雨よけとして点されたたいまつの火が彼の胴体を輝かせる。それはまるでバロンが大型の暖炉の炉床にいるような光景であった。

 

 ランダやバロンなどの特別な意味や力を持つ仮面は、特異な状況下にあった木を材料にすることがしばしばある。一例が、波に流されてきた青光りを発する木片で、それは神からの贈り物とみなされている。そして仮面は白い布に包まれている。この白い布には悪に抵抗する守護となる絵と、神聖な音韻が描かれている。この類の仮面はすべて、初めて使う前と、使い出してからも、魔力を充填する。この、魔力を充填することをムレ(M'reh,訳註:もしくはヌレ/Ngereh)という。ある村では大急ぎで作った仮面を、特定の男性がかぶってみた。もし、この男性から最初に光が発したならば、その仮面は妥当ではないのである。ある時は、8回試みたのち、9回目にして仮面が勝ったという。

 

 どの村も独自のやり方でムレをおこない、特別の供儀をささげる。南部の海岸べりの村では、ランダの仮面の数々に魔力を充填したいとき、夜に仮面を墓場へ運び、籠に入れて樹の下に置いておく。ランダの仮面をかぶることになっている男性たちは、つぎの供物を捧げる。p.105→それは頭を切り落とした去勢していない牡の子豚と、鼻づらが赤茶色の、白い子犬の肉塊である(この種の供物は霊たちをなだめるために、さまざまな場合に使われる)。供物を捧げたのち、男性たちは仮面をかぶる。するとただちにトランスに入ってしまうのである。その状態のまま彼らは寺院へ連れて行かれる。儀礼をおこなっている間、墓場で火を点すことは許されない。火を点すと、ドゥルガの魔力が仮面に入らないからである。

 

 墓場での儀礼を終えてプラ・ダレムに帰るランダの記述を進めよう。ガムランが寺院の内側で演奏している。人々が走る足音と、小道を通って海からやってくるトランスに入った人々の発する取り乱した叫び声が聞こえる。するやいなや、2体のランダが凶暴な叫び声をあげながら寺院の内庭へなだれこんできた。2体の青白い顔とボサボサのたてがみは、ぼやけたような光のなかでも非常に恐ろしい。すぐに数名の少年と男性たちがランダを攻撃しようと、前方に走り出る。まるでよく滑る氷の上で動いているような迅速な動きで、トランス状態のランダの足元に滑りこむ者もいる。3番目のランダがやってきた。すでに深いトランスに入っている。内奥の庭へ向かって前進している先の2体のランダは、徐々に打ちひしがれたような様子になり、ついに人前から姿を消した。半ダースほどの人々が地面でのびている。彼らはさまざまな姿勢で身をゆだねていて、倒れたときの姿勢のまま動かない者、かすかに動きながらうめいている者もいる。まもなく、輝かしいバロンがたてがみを揺らし、歯を噛みあわせてカタカタという気持ちの良い、元気を与えてくれる音を鳴らしながら、奥の暗い寺院から倒れている人々のところへ歩いてきた。バロンが足で地面を打つと、数名が反応を示し、残りの者は主要な祠の前へ体を引きずられていった。その祠の前にバロンは立ち、人々に祝福を与え、あごひげを使って人々の回復を図るのである。この時までにランダたちの仮面は棚に並べられ、白い布ですでに覆われていた。そしてガムランによる非常に美しい旋律が演奏されるなか、供物の意味をもつ舞踊(メンデット)が踊られ、バロンへ捧げられる。少女たちがすべての祠とランダたちへ捧げる供物を運んでいる。そしてバロンは家に帰る。人々も三々五々、家路につく。ランダの仮面は寺院に残しておかれ、寺院で保管されるのである。

The Drama of Magic. PartⅠBarong その10

Beryl De Zoete & Walter Spies 『Dance and Drama in Bali』p.102の22行目からp104の3行目まで

 1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

2~3のバリに伝わる民話を除き、バロン劇でいちばんポピュラーなストーリーがチャロナラン(Tjalonarang, Calonarang)物語、もしくは名前は異なるが、チャロナラン物語を改訂したものである。そしてチャロナラン物語は話に一貫性がある。(注:バロンはランダとの関係を通じてチャロナラン物語群に巻き込まれている。チャロナラン劇が上演されるとは見受けられないような時ですら、エルランガ王/ Elrangga*1 に対するランダの辻褄の合わない台詞のなかに、それとわかる仄めかしで暗示されているのは確実である。エルランガ王の大臣であるバロンはいつも、チャロナラン劇の或る瞬間にたいせつな役割を演じる。チャロナラン物語については原著のp.116を参照。ときどき、ラルンを魔女の娘ラトゥナ・ムンガリが兼ねることがある。バロンはまぎれもなく、エルランガ王の大臣である。泣いているラルンへランダが「どうして泣いているのかい?クディリ王国に十二分に被害を与えるまでに活躍したのに、どうしてエルランガ王のパティ(Patih, 大臣)から逃げ出したのかい?」とわめく。ラルンは不安を白状した。それを聞いたランダは「お前は私の娘ラトゥナ・ムンガリとここにいるがいい。私が1人で大臣に会って殺してやる」と言い、呪力を働かせてエルランガ王の宮廷から大臣(バロン)を連れてきた。バロンは埋葬地でランダに出くわしたのである。しかもランダの白い布のせいで、バロンは彼女を見誤ったのであった。彼が噛んだ相手は普通の呪力を持つ者ではないと知った時、バロンはたいへんな恐怖感に襲われて話す能力を失ってしまった。ランダはエルランガ王の軍隊が彼女に戦いを挑むよう、バロンを王のもとへ帰そうと試みる。彼女はすべてを破壊するつもりなのである。自分の無力さを嘆きながら、悲しみに打ちひしがれたバロンが立ち去るのは、このときである。そしてブタ・カラたちがバロンを守るため、急に飛び跳ねだす。

 

 バロンとランダの戦いは、だいたいが上記のような話の展開を模範としている。もっとも振り付けはたいへんヴァラエティに富んでいるが。p.103→また上演の場を道を舞台とするのか、それとも寺院の庭のようなオープン・スペースを舞台とするのかで、当然違いが生じる。寺院の庭を選んだならば、踊り手たちは寺院の前の道から、あるいは2つの内庭を切り結ぶ坂の下から登場する。

 

 上記のバロン劇の場合、エンディングの舞台となる場所は道の真ん中である。通行しようとする二輪馬車が来たならば、演技中でもシーンにかかわらず、演者たちは道を譲って、道端へ避ける。しかし終わりに近づいてきてトランスが進行すると、往来は一時通行止めとなる。そしてバロンが家路につくときの長い行列だけが、道を往来することができる。

 

 バロンの胴体は、まず黒髪で葺き、その地毛の上を孔雀の羽でまるごと葺いたものである*2。頭部は野生的かつ乱暴な王者のようであり、威厳に満ちた黒いあごひげを生やしている。そして金箔をかぶせたアーチ状の尻尾には黒い毛と赤い房が生えている。耳のそばから伸びた黒い毛に、孔雀の羽が加えられることもある。バロンは踊り手のように頭を左右に素早く動かし、歯をカタカタ鳴らしながら、わななくようにガムランを攻め立てる。彼はしゃがんだり、飛び跳ねたり、元気に立ち上がったり、クルベットをするのである。彼の外見は古風であるにもかかわらず、ステップは軽く、すばしこい。あげくに彼は地面に腹をつける。そして孔雀の羽で葺いた胴体を渦を描くように丸めて、頭を振る。宝石がちりばめられた彼の鎧は輝いている。背を向けて瞑想をおこなっているランダに近づこうとして、彼は1歩ずつ注意深く動き始める。そしてランダを包囲した。ふりかえるようにして、尻尾のあいだからランダを見つめている。たいへんな緊張感に溢れるクライマックスの場であるが、頭を隠して尻尾を隠していないバロンの姿は滑稽である。無常にも、バロンは気味の悪い叫び声で追い払われた。バロンは旗棹のそばで、ぺしゃんこになって倒れている。前脚は前方へまっすぐに伸び、顔がぶるぶる震えている。前脚の踊り手はすでにトランスに入っている、そうしているうちに、’クリス・ダンサー’の数名もトランスに入った。そのなかの黒人のような顔つきをした背の高い男性は前方へ突進し、ランダの前で小刻みに震えながら立った。そして、彼は後ずさりをした。一方ランダは落ち着きのない様子で白い布をつかんだまま、時間の進行を止めるかのように足踏みをしている。トランスに入った6人の男性が前に出てきて、ランダを追いかける。しかしそのうちの1名は大の字になって倒れ、死体のようになって地面を引きずられていった。しばらくして全員が地面に倒れたが、動くことなくじっとしたままである。かれらは後方へ運ばれ、1列に並べられた。その光景はまるで病院か戦場のようである。それからの進行はたいへん整然としている。世話人たちが負傷者たち*3の世話をするために、静かにあちこちへ移動する。いっぽうバロンは負傷者たちのあいだを、気を遣って歩いている。彼は順番に負傷者たちめいめいへ鼻をこすりつけている。僧侶が聖水と花を携えてやって来た。花が聖水とともに振り撒かれる。そのため、負傷者たちの顔には花びらがまだらになって貼りついている。そして、聖水によって浄められた負傷者たちはいくぶんか元気を取り戻し、体を起し始める。今バロンは、明らかにトランスに入っている。バロンは折り畳まれた自分の傘の下に立っているが、荒い呼吸をしている。そして彼の前に男性たちが群がって、震えている。その間ずっと、ガムランは小さな音量の完全5度や、短3度と柔らかく擦れあう完全5度の和音で場を慰めている。さて、起き上がった男性たちにクリスが渡された。彼らは顔を激しく歪めながら、クリスを自分の胸に突き立てる。ある者は自分の身をバロンのあごひげへ向かって投げ出し、さらに必死になってあごひげをつかもうとする。そしてプマンクがトランスに入った。トランスに突然入ったために、プマンクは両手にクリスを持ち、バロンの前で踊っている。しかしクリスを取り上げられる際、彼はまったく抵抗しなかった。バロンのあごひげの中へ興奮して飛び込み、バロンの前脚の踊り手が発する呻き声に刺激されたのか再びトランスに入る者もいるが、この興奮騒ぎは始まったときと同じようにすぐに終わる。p.104→ランダの仮面はプラ・ダレムへエスコートされる。バロンを彼が住む遠くの寺院へ送り届けるために、小規模な群集とガムランが夕陽の沈む方向へ向かって、さっさと出発する。

 

*1:エルランガ王はアイルランガ/ Airlangga王とも呼ばれる。929年頃から1222年まで東部ジャワで栄えたクディリ/Kediri王朝の王。座位期は1019年から1042年。1049年に死去。父はバリのウダヤナ/Udayana王、母はクディリ朝の王女で1001年頃に生まれた。

*2:特にどこの村のバロンとは書いてありませんでした

*3: 筆者は戦場や病院という喩えを使ったので、それに対応する言葉として「負傷者」という表現を使ったのでしょう。

The Drama of Magic. PartⅠBarong その9

Beryl De Zoete & Walter Spies 『Dance and Drama in Bali』p.101の17行目からp102の21行目まで

1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

単純なヴァージョンとは少し異なるタマン・インタランのバロン劇は、ランダの仮面を3つ用いる*1ようになってから、舞踊の特徴を実例ではっきりと示すだけでなく、通俗的にも抽象的にも楽しめる、わかりやすい演出になった。

 

 タマン・インタラン村ではサンダランとジャウッによるプレリュードが終わってから、1つめの仮面の魔女が登場する。彼女は軽快なステップでバロンに近づく。その後、舞台空間の中央で大きな円を描くように動いたのち、瞑想のムドラをおこなったまま不動の状態で立つ。彼女は頭に白い布をかぶったままである(すなわち、彼女の姿は人目には見えない状態であると解釈される)。彼女はランダの弟子のラルン(注3:ある時(バンリ/Bangli地方で)ラルンの仮面はランダの弟子ではなく、木に変身した悪魔のカララウ(Kalaraoe, kalarau)に由来した顔であった。カララウは根から超自然的な声を出したり樹皮に顔を浮かび上がらせたりして 木を掘り返そうとした村人たちを怖がらせる。白い布は例によって演者が隠れている状態を請け負うし、旗棹はキンマの樹を象徴しているで、かなり高度の魔術が使える。ラルンは魔女の仕事である破壊を手伝うために、魔力を獲得しようと墓場へやって来たことを、我々は覚えている。

 

 バロンはラルンの存在を嗅ぎつけた(注4:レヤックは強くて甘いにおいを放っているので、その匂いでわかる。鼻をくんくんさせながら、忍び足で用心深くラルンに近づく。バロンは歯をカタカタ鳴らして、瞑想していたラルンを驚かせる。バロンはかなり接近しているので、もう少しでラルンをがつがつと食べてしまうように見えた。彼は何度もラルンを追いかけ、ついにラルンは師匠であるランダの前に身を投げ出して泣く。師匠は舞台に登場しているが、背を向けたままである。それは「姿をまだ人目には晒していない」ということをあらわしている。しばらくの間、バロンは意気揚々と進み、ラルンへ鼻を鳴らしたりする。そして自分の傘に向かって猛スピードで突進する。ランダはそのあとすぐに演技を始めだした。ランダはラルンの周囲を跳び、毛の生えた腕でラルンの頭をつかみ、前後左右に優しく揺り動かす。また、ずっとひざまずいた状態でいるラルンの頭を軽く叩いたりする。それは2体の怪物が協議しているような、不思議な光景である。そしてラルンは退場する。ランダの旗は方向を転換し、交差する。旗先は地面に着くか着かないくらいまで低く下げられている。p.102→すなわち、ランダは墓場へ飛んでいるのである。彼女は最初ぞっとするような雰囲気を醸し出しながら、ゆっくりと前進する。それから、旗の陰にかくれながら走り出す。ランダのギョロ目は感情で輝いている。バロンが近づいてきて、瞑想の邪魔をしようとランダを噛む。両者はもつれたようなかたちで絡み合って踊る。彼らが戦っている間に、もう1体のランダが目立たない位置に立っている。このもう1体のランダはドゥルガ・カラ(Durga-kala, ランダ・リンシール/ Rangda Lingsir, 長老のランダ)と呼ばれ、彼女の魔力は戦っているランダの体へ伝えられる。2番目のランダの出現で、戦っているランダは「闇のランダ」、すなわちランダ・プムトゥン(Rangda Pemeteng)となる。

 

 バロンとランダの戦いシーンの始まりで、数名の男性たちはバロンが最初に入場した場所に座る。彼らはのちに、ブタ・カラによって憑依状態に陥る。そのブタ・カラはバナスパティ・ラジャの従者である魔物で、現在、バロンに変身している。バロンがどうやら負けそうになる瞬間、男性たちはランダへの激しい怒りを感じ、急に飛び跳ねだしてクリスをつかむのである。クリスの数が男性たちの数に足りないことはない。そして彼らはランダの前へ身を投げたして、自分たちのリーダーであるバロンを守ろうとする。このとき、「闇のランダ」は究極の姿であるドゥルガ・ムルティ(Durga Murti、化身)に変身し、手に持った魔法の布で彼らに魔術をかける。その結果、クリスを握った男性たちは力を失って地面に倒れる。怒り狂いつつも勝利を得たランダは舞台裏へ連れ去られる。ときどきランダの踊り手自身もトランスに入っていることがある。そのあと、バロンは手下たちを回復させようとやって来て、男性たちの周囲で鼻をすすったり、あごひげで彼らを愛撫する。男性たちは震えたり叫びながら、あるいは痙攣のような動きとともに空中を叩きながら、跳ね起きる。そのすぐあとに「クリス・ダンス」が始まり、バロンのあごひげを浸して浄化した聖水が振り撒かれる。そしてブタ・カラが男性たちの体から離れ、バロン劇は終了する。

*1:ラルンはランダ側なので、ラルンの仮面も含めて「ランダの仮面を3つ」と述べているようです

The Drama of Magic. PartⅠBarong その8 

Beryl De Zoete & Walter Spies 『Dance and Drama in Bali』p.100の20行目からp101の16行目まで

1973(Reprint) Kuala Lumpur : Oxford University Press, Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938

 

パオン村(Kepaon)では4名のサンダランたちが膝を曲げて重心を下げたり、膝を外へ向けてしゃがみながら、優雅な踊りを長い間踊る。その間も扇子は回転し続けていて、地面に対して並行に軌跡を描く。そしてサンダランたちは中央に集まり、うち2名がしゃがみ*1、あとの2名は旋回したりポーズをとったりするのであった。あるいは1名だけ、主要旋律楽器の奏でる旋律にあわせるかのごとく、他者のあいだを縫うように移動する。落ち着きがなく、打ち解けないまま、彼らは徒党を組む。不動の仮面は受身な性格をあらわしている。貼り付いたような甘い微笑をあちこちへ投げかけて、全くじっとしていない。微笑は、冠りものについた花のかげに隠れたかと思うと、踊り手たちの熱のこもった体の上へ投げかけられる。最後にサンダランたちはひざまづく*2。そこへ、もう1名のサンダランが遠くから近づいてきた。そのサンダランは大きな傘が掲げられた金色と紫色のドームから登場したのである。彼は観客の気を緩ませない踊りを踊りながら、近づいてくる。体が大きく、仮面の肌は黄色く、妖精の王子に見えるような繊細な顔立ちは、別種のサンダランであることを示している。そして滑るように進んできて、順番に白い顔のサンダランたちの前で休む。彼の右手は扇子を回転させていて、左手は絶えず円を描いている。伝統的な、恋愛の旋律(訳註:原著では"love melody"が演奏されると、彼はしゃがんでいるサンダランたちめいめいと優しくたわむれてから*3、舞台空間のあちこちへ曲がりくねりながら再び移動する。その後しゃがんでいたサンダランたちは立ち上がり、一連のロマンティックな振り付けを踊りながらサンダランの王子を取り巻いたり、近づこうとする。サンダランの王子は銀色の幅が広いストールをまとっていて、それは前足につきそうなほどである。また、花びらで飾った髪が長いために、細身の体をより強調している。彼は4名のサンダランたちと順番でペアになってポーズをとったあと、オマンたちが前進してくるのを見て、踊りをやめる。

 

 クパオン村の場合でも誰もストーリーを知らないのだが、サンダランたちはバロン側についているようにみえる。引き続いて、団子鼻の猿顔で頭が象のような滑稽な仮面をつけた胡散臭い集団(訳註:オマンたちのことが、白肌の偉大なるジャウッの指揮のもと、舞台空間を飛び跳ねまわり、ふざけながら現れた。p.101→そして胡散臭い集団が離れた場所にある白旗の陣地に不法侵入すると、「天使たち」は胡散臭い集団を物憂く叩くのである。胡散臭い集団たちの陣地は、サンダランたちの反対側、すなわちランダ側にある。しかし見かけは当てにならない。バロンはジャウッとサンダランで構成されているエレガントなバレエ団に加えて、馬鹿騒ぎをする魔物のような従者たちの集団も抱えているのである。さらに、胡散臭い集団にくらべてサンダランとジャウッは育ちも見かけも良いが、含めて全て魔物である。全員がお互いを完璧に知っているうえに、自身も魔物であるバロンは、自分のブタ・カラたちが偶発的に起こした騒々しい状況を観客たちとおなじように楽しんでいるのである。(注1:原著p.128に挙げたデンジャラン村のバロンを参照この騒ぎの意味がどのようなものであれ、バロンとランダの戦いが始まる前に、この集団は退場するのがふつうである。

 

 サンダランを登場させるのはデンパサールの村々だけであり、デンパサールのかなり広範囲に及ぶのは確かなことのようであるし*4バロンと切り離してサンダランを単独で登場させることは決して無い。サンダランはランダと特別な関係を持っていないというのも確かなことのようである。けれどもサンダランの仮面をシシア(魔女の弟子、Sisia, Sisiya)にかぶせる村が1つある。またタマン・インタラン村のバロン劇においては、サンダランたちはランダとの不思議な関係に取り込まれている。それでもタマン・インタラン村のサンダランはいつもプレリュードで登場しなければならない。(注:原著のAditional Note p.273を参照。訳注:その6に掲載の補足『-プダンダによるバロン劇の神秘的(タントラ思想的)解釈-(原著:写真41

 

*1:原著はcrouch=しゃがむ。恐らく片膝は立てて、もう片脚は膝から折りたたむ座り方を指しているのではないかと思います

*2:原著はkneel=ひざまづく。原著の写真53に見られるようなつま先を曲げて踵を上げた正座かもしれないし、あるいは、片膝は立てもう片脚は膝から折りたたむ座り方かもしれません

*3:原著では4名のサンダランたちの座り方はcrouch=しゃがむ。王子のようなサンダランと「たわむれる」時に、先のkneelな座り方からcrouchへと座り方を変えたのかもしれません

*4:当時はそうだったのかもしれませんが、現在はデンパサール以外でもサンダランを登場させる村があります